昭和58年(1983)、東京大学付属図書館から寄贈された大量の古典籍のなかの、漢籍に紛れていたものと推測される。平成17年(2005)に、人文学部教授長谷川成一氏が古典籍を調査した際に同資料を発見しました。

【概要】
 本資料は,昭和58年(1983),附属図書館が事務部長制に移行した際に,東京大学附属図書館から寄贈された大量の古典籍の(第1丁目の朱印に,「東京帝大」の印文が見える)漢籍の中に紛れていたものと推測される。
 『愛知県史』資料編10(愛知県 平成21年)によると,同資料は,岡崎市大和町所在の真宗高田派妙源寺の所蔵にかかる文書である。約70点の中世文書を収め,多くは戦国期のもので,同寺にあてた碧海郡・額田郡の土地の寄進状や売券である。発給者にはのちに松平家臣団に組み込まれた在地小領主が多く,松平氏との開わりも深い。当初は明眼寺と称し桑子殿,桑子御太子とも呼ばれていたが.江戸時代に妙源寺と改めた。伝承によると,文暦2年(1235)桑子城主安藤薩摩守信平が帰洛途中の親鸞を招き,城内太子堂で帰依して出家し法名念信房蓮慶となり,正嘉2年(1258)城地を割いて明眼寺を建立し,開基になったという。
 現在,同文書の写本は,内閣文庫,東京大学史料編纂所,尊経閣文庫などに収められているが,『国書総目録』第7巻(岩波書店 昭和45年)の同文書の項によると,本学の当該文書の写本はその中に含まれておらず,新たな写本の一つと言うことができよう。加えて,原本との校合をしてみないと不明の点もあるが,点数や刊行されている同文書の内容と校合した結果,妙源寺文書原本の忠実な写しと見て間違いないであろう。 【参考】『新編岡崎市史 6 史料古代中世』(1983年 岡崎市) 『愛知県史』資料編10(平成21年 愛知県)     

(弘前大学名誉教授・元附属図書館長 長谷川 成一)

 【デジタルアーカイブへ登載するに当たって】   
  妙源寺古文書(以下,「古文書」と略記)をデジタルアーカイブへ登載するに当たって,次に掲げる作業を実施したので,留意されたい。

  • 本学所蔵の「古文書」は,袋綴じ,竪帳の史料形態である。全体として虫損が著しく,綴じ紐も一部破損して背を綴じる機能をほとんど喪失した状態で,長年書庫に架蔵されてきた。したがって,附属図書館では,この機会に「古文書」の保存を重視した公開態勢を採用することとし,冊子体を解除して虫損とそれによる料紙の更なる損壊を防ぐことをめざして,表紙と裏表紙を除いた全ての料紙に裏打ちの措置を施した。

  • 「古文書」収載の各文書は,各丁のオモテとウラに一紙全体が俯瞰できるように,原況の編綴の順に従って一丁毎に撮影し閲覧に供した。

  • その過程で明らかになったのは,「古文書」の画像No.101の天文9年(1540)12月28日「都筑竹松等連署売券」が,一紙の左右が逆に謄写されていたことである。No.101の画面の左側が文書本来の袖で,右側が奥であった。『愛知県史』資料編10中世3(平成21年 愛知県)577頁に当該文書(1392号)翻刻文が掲載されており,それと照合した結果,写本作成の際に錯誤のあったことが判明した。閲覧に当たっては,注意されたい。

  • 附属図書館としては,今後,「古文書」の裏打ちした各料紙の状態を観察し,状況によっては袋綴じ・竪帳の原況に復元することも検討するが,当面は冊子体を解除した現況を維持してゆく予定である。

(付記)上記一連の作業の過程で,弘前大学教育学部の瀧本壽史准教授と人文社会科学部の武井紀子講師から種々の助言を得た。

(弘前大学名誉教授・元附属図書館長 長谷川 成一)