【概要】
 「津軽領西海岸図つがるりょうにしかいがんず」(以下、「西海岸図」と略記)は、弘前市の郷土史研究家・故小野慎吉氏(1888-1963)の蔵書で、昭和40年(1965)1月、同家から弘前大学附属図書館へ寄贈され、小野文庫と命名された資料群に収蔵されている。同文庫は、郷土史関係の図書・古文書類等から構成されている。
 附属図書館への受入れに際して受入目録は作成されたが、その後、近現代の刊本類は本館所蔵図書として文庫本体から分離・配架されたため、受入目録自体が機能しなくなったことから、現在、資料の再整理と新目録の作成中である。
 同文庫所収の史資料は膨大で、資料目録の脱稿には、いまだ日時を要することから、同文庫の中で、特に学界に裨益するのではないかと考えられる資料を、できる限り早急にデジタルアーカイブスを通じて公開しようとの認識にいたり、附属図書館と協議の上、このたび「西海岸図」を本アーカイブスに登載することにした。

〔「西海岸図」の書誌的な概要〕
 「西海岸図」は、津軽領西海岸の街道に沿って、南は秋田領との境界である須郷岬すごうみさき(現西津軽郡深浦町大間越)から龍飛崎たっぴざき(現東津軽郡外ヶ浜町三厩)までの海沿いの景観を描いた絵図集である。資料の形態は冊子体で、いわゆる一枚物の絵図ではない。
 年代は、後述の考証の結果、幕末維新期、安政期(1854-60)頃と推定している。作成者は不詳。
 小野文庫の請求番号は1126。法量は、縦24.8p×横17p。44丁1冊。竪帳たてちょう
 基本的に墨線で西海岸の景観を描写し、街道・山道などの道路は朱線で描いている。全体として、目立つ虫損はなく保存状態は良好。ただし、後述のように一部落丁が認められる。
 本資料に表題の記述は見当たらない。同様に津軽領の海岸を描いた類似資料として、「西海岸長延略図」天・地(弘前市立弘前図書館蔵八木橋文庫)が存在する。後述の両資料の関連性(類似・相異等)を踏まえて、当アーカイブスにおいては、本資料名を「津軽領西海岸図」とした。

〔「西海岸図」の解説〕
 「西海岸図」の内容について、以下、1、年代について、2、落丁について、3、本資料の特徴について、順を追って解説することにしよう。
1、「西海岸図」の年代について 
 前述のように表題はもちろん、作成年も資料中に記載は見当たらない。作成ないし成立の年代については、資料に描かれた図中の景観やそれを説明する記述の中から手かがりになる点を抽出して考証することにしたい。
 現在、千畳敷せんじょうじき(現西津軽郡深浦町)として知られる大戸瀬おおどせ小戸瀬こどせの景観が図中に描かれている。海中から隆起して海底が現出した奇観は、寛政4年(1792)、津軽地方西部を襲った大地震によって形成された(宇佐美龍夫他著『日本被害地震総覧599-2012』東京大学出版会 2013年)。これにより、少なくとも本資料は18世紀末以降の成立であり、それ以前には遡らないことは明白であろう。さらに図中に大間越おおまごし(現西津軽郡深浦町大間越)から龍飛崎に至る、西海岸の要所に海岸防衛のための台場だいばが描かれている。それらの台場は、文化4年(1807)の幕府からの下命に基づき、弘前藩によって領内海岸の要所に設置された(『新編弘前市史』通史編2 弘前市 2002年)。台場の設置が19世紀初頭のことから、描かれている台場は、それらが完成に至った姿を示していると考えられる。
 実際に村の姿が図中に描写されているわけではないが、車力しゃりき村(現つがる市車力)の集落の箇所に次のような記載が見える。
△車力ヨリ袴潟ハ路ノ西ニアリ、袴潟ノ堤通リ、ソレヨリ千貫ノ松山ヘ入、豊富・富萢ヘ行、豊富ハ新村也、(傍線筆者)
 上記の豊富とよとみは、屏風山砂丘びょうぶさんさきゅうの東端に位置し、現在のつがる市車力豊富である。『西津軽郡史』(名著出版復刻 1975年)と『車力村史』(車力村 1973年)によると、嘉永5年〜安政3年(1852〜56)、山田川と岩木川に差し挟まれた千貫崎せんがんざき(現つがる市豊富)200町歩の田地が開発されて、同村が成立したという。新村としての豊富村の存在を明示する記述から、本資料の描く景観の下限は、1850年代、安政期(1854-60)頃と推定される。
2、「西海岸図」の落丁について 
 前述のように、本資料には残念ながら落丁が認められる。本資料の綴じ代の箇所に漢数字で丁数が書かれているが、綴じがタイトのため、通常に開いた場合、丁数の箇所はほとんど見えない。附属図書館の許可を得て工夫を凝らして確認したところ、「十丁」〜「十四丁」までが落丁箇所であった。画像では、20ページと21ページの間に落丁部分が存在。地名で示すと、正道尻しょうどうじり(現西津軽郡深浦町岩崎)・太田おおたの集落から深浦町追良瀬おいらせの集落までの区間であり、ちょうど現深浦町の岩崎いわさき(現深浦町岩崎)と深浦との間、艫作崎へなしざき一体の地域が落丁部分に該当する。残念ながら当時の岩崎村と湊町深浦の景観は、本資料で窺うことができない。
3、本資料の特徴 
 〔「西海岸図」の書誌的な概要〕において触れたように、類似資料の前掲「西海岸長延略図」天・地(以下、「長延図」と略記)と比較して述べると、本資料の特徴がより明確になるのではないかと考えられることから、その点をお含みの上、以下の記述をご覧いただきたい。
 「長延図」と比較して「西海岸図」の最大の特徴は、津軽領西海岸に関する地誌情報が満載されていることであろう。「長延図」は彩色を施して地形などを図示しているのに対し、前述のように「西海岸図」は墨線を基本として景観を描いている。
 しかし、明らかに「西海岸図」は景観描写が具体的かつ写実的で、「長延図」と較べ、遙かに高度な技量の持ち主が描いたと考えられる(恐らく主な景色を実見して描いたケースもあったのではないか)。古蹟、古城跡、古館、日和山、台場、狼煙場、遠見番所など主要なランドマークを克明に描く。せき瓶杉かめすぎ種里たねさと城址、光信みつのぶ墓所、亀ヶ岡城跡等の著名な古蹟は具体的な地形なども描写されており、出土品や由緒、屏風山の埋没木(図では埋木と見える)の説明文が付されている。なお十二湖じゅうにこ(図では十二池と見える)は、図に描くことはなかったが、地誌情報としての説明文を記録している。
 先述の千畳敷に関しても大戸瀬・小戸瀬の描写は精緻で、ランドマークとなる海岸に点在する奇岩・奇勝などの各由緒や言い伝えなどは現在では失われるか、忘失されているものも多いと推察される。「長延図」には、これら地誌情報の説明文が一切なく、主要な海岸地点に、「沖合」三十間、一町、五町、十町、二十町、三十町の各深さが記されている。そのほかには、主要各村の間の里程と戸数の記述が認められ、「長延図」の表題は里程の記述のあることに由来するのであろうか。「西海岸図」には、里程や戸数、沖合の深さなどに関する記載は一切なく、図は同じ地域を描くも、結果的に「長延図」と「西海岸図」の資料としての性格は大きく異なり、作成目的も相違したものであったといえよう。
 さて、「西海岸図」について二つの特徴点を指摘して本稿を終えたい。
 第一に、本資料において格別かつ詳細な地誌情報が目立つのは、十三湖じゅうさんこ(現五所川原市)の地域である。十三湖への岩木川の入り口、内潟、後潟、富萢とみやち、十三町、萢地帯の説明は詳細であり、「追加」として、2つのパラグラフにわたって詳しい記述がなされている。これは他の地域には見られないもので、本資料の作成者が、本来、存在していた原本に新たに説明を加えた可能性がある。或いは、本資料は作成途上で完成本にいたる手前の段階であったのかもしれない。しかし、掲載された図及びその説明文は、現在では到底知り得ない、当時の地誌情報が豊富であり、学術的にも貴重であることは疑いない。
 第二に、西海岸所在の寺社や観音堂がほぼ網羅されている。とりわけ日照田ひでりた(現西津軽郡日照田)、十腰内とこしない(現弘前市十腰内)そして春日内はるひない(現五所川原市相内)の各観音堂の説明文は目を引く。日照田観音堂には、「△日照田観音ニ銀杏アリ、元廻二丈五尺、乳ノ数ハ十五ツ大ハ長五尺位、跡ハ三尺二尺五六寸迄、又老古杉ト云アリ、古木ナリ」。十腰内観音堂には、「△十腰内観音堂ノ杉ノ中松ノ葉ノモノアリ、又コノ杉ノ中ニ桜ノ寄木アリ、見事」。春日内観音堂には、「△コノ宮ノ木伐レハ神罰有テ木伐ラレス、△コノ観音堂ニ竜灯アリト云」との解説が見える。これらのことから、本資料作成者は観音堂所在の杉、銀杏などの樹木の植生に並々ならぬ関心を抱いていたことが判明する。神霊域と植生の関係については未解明のことが多く(注)、今後、他の史資料や絵図にも散見される樹木などの植生と合わせて研究を深める必要があり、本資料もその解明に資するのではないかと期待される。

注)神霊域と植生に関しては、牧田肇 弘前大学名誉教授「植生から見た津軽三十三霊場の周辺環境」(令和元年度「博物館歴史講座」第3回 弘前市立博物館主催 2020年1月開催)の講演が、青森県内での初めての研究成果と思われる。

(弘前大学名誉教授・元附属図書館長 長谷川 成一)
(付記)当概要を執筆するに当たっては、弘前大学教育推進機構の瀧本壽史特任教授から助言を得た。