Top > 学内出版物 > 図書館報「豊泉」 > No.19(2000.10) > p.2-3
豊泉  THE HIROSAKI UNIVERSITY LIBRARY BULLETIN  弘前大学附属図書館報  Print ISSN 0919-8563

翻訳者とは橋をかける者

教育学部教授 J.N.Westerhoven

 7月7日の午後6時頃でしょうか,講談社から私に電話がありました。奥泉光の『石の来歴』のオランダ語訳に対し,2000年の野間文芸翻訳賞受賞者として私の名前が上がったそうです。この賞を受ける気持ちがありますかと聞かれて,声がすぐ出ませんでしたが,勿論「慎んでお受けいたします」と答えました。相撲取りが大関または横綱に昇進すると,必ずそういうことを言うらしいので,私も一度は言ってみたかったのですが,興奮のせいかその言葉があまり通じなかったようです。「では,「喜んで受ける」でしたね」と,講談社の方が確かめました。確かに,大変な喜びでした。
 僭越ながら,野間文芸翻訳賞受賞というお知らせを受けた時の驚きは,ノーベル賞選考委員会から電話を頂戴する時の感慨に似ているかもしれません。それは,この二つの賞の名称が,1シラブルしか違わないという理由のためではありません。翻訳者がノーベル賞を受賞することは,そういう場合があっても良いと思いますが,まずありません。ストックホルムの選考委員達が,川端や大江のような作家を原語で読むなど想像だに出来ないことです。一般に流布していない言語で書く作家がノーベル文学賞を受賞するのは,その超越した輝きを放つ作品に起因すると共に,評価を大きく左右するのが,表紙ばかりか表題紙にも名前の掲載されないことの多い訳者の労苦に依ると言えるでしょう。川端康成は,そのことを良く理解していました。というのは,彼が自分の翻訳者であったEdward Seidenstickerをストックホルムの授賞式に連れて行きました。奥泉光はまだ若い作家ですが,文壇の重鎮ともなるべき才能を持っていますので,もしかすれば本当に将来ストックホルムで会えるかもしれません。楽しみにしています。
 ところで,野間文芸翻訳賞は唯一の日本文学の翻訳賞ではありますが,一般にあまり知られていないようです。主催の講談社からいただいた資料には,次の説明があります。「日本文化の海外の紹介および国際総合理解の増進に寄与することを目的に,小社では創業80周年を記念し,1989年に「野間文芸翻訳賞」を創設いたしました。この賞は,日本の文学作品(明治以降,ノンフィクションを含む)を外国語に翻訳,発表した作品の中から,最も優れた翻訳をした者に贈られるものです。」
 しかし,もう少し詳しく説明しましょう。対象言語が毎年変わり,今まで英語が3回,仏語と独語が2回,それからイタリア語,スペイン語とスカンディナビア諸国言語が1回ずつ受賞者を出したわけです。
 この世界には外国語が数えられないぐらい多くありますが,今回オランダ語の番になったのは,たまたま今年が日蘭交流400周年の記念の年だからです。そういう面で,私は本当に運が良かったとしか思えません。
 日蘭両国の縁(えにし)は400年の長きにわたりますが,いかに長く強く結ばれた婚姻にも誤解は生じるものです。そのような誤解が生まれないよう骨折るのが翻訳者の使命とはいえ,文学の訳業に携わる者としては,ある国の民が有する行動様式より,その根源となる思想を自国の民に伝えるのが任務です。翻訳者とは橋を架ける者です。この言葉をラテン語に直訳すると,「pontifex」,つまり「大神官」となりますが,少し大げさとは言えども完全に合っていないわけでもありません。翻訳することは単なる生業(なりわい)ではなく,天職と言えます。私は,翻訳の担い手として命を受けた我が身の幸運を噛みしめております。

(ジェームズ・ウェスタホーベン 英語教育講座)


弘前大学附属図書館 Hirosaki University Library