- 加藤謙一が情熱を注いだ少年雑誌 -
『少年倶楽部』
郷里の弘前で小学校教師をしていた加藤謙一は,子どもたちに喜ばれる雑誌をつくりたいとの一心で職を辞して上京。念願叶って大日本雄辯會講談社(現在の講談社)に入社。野間清治社長の抜擢で入社後3か月という異例の速さで『少年倶楽部』の編集長に就任。1921年(大正10)から11年間編集長を務めた。その間に『少年倶楽部』は,吉川英治の「神州天馬侠」,大仏次郎「角兵衛獅子」,佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」,など有名作家の作品が誌面を飾り,更に田河水泡の「のらくろ」や島田啓三の「冒険ダン吉」の漫画が人気を集め,発行部数も最盛期には80万部を越えた。 |
『野球少年』
1945年(昭和20),終戦とともに講談社を退職した加藤謙一は,妻と7人の子どもの生活を支えるため,親戚が始めた『野球少年』という雑誌の編集に参画した。それまで野球を見たこともなく,ルールも選手の名前も知らなかったが,「誌上実況放送」など加藤謙一の企画が次々に成功を収め『野球少年』は戦後の野球ブームに乗って急速に部数を伸ばした。詩人で大の野球ファンだったサトウハチローが当時の新聞に「野球を知らない加藤サンがヒットを飛ばすとは,近頃の七不思議の一つ」と書いた。 |
『漫画少年』
1947年(昭和22),加藤謙一は,「いつかは自分の手で,戦前の『少年倶楽部』のような,漫画や読み物や詩が満載された子ども向け総合雑誌を作りたい」との考えから,その年の秋,『野球少年』を辞めて,妻の昌を社長に家族ぐるみの「学童社」を設立。井上一雄の「バット君」,山上惣治の「銀星」,長谷川町子の「サザエさん」,手塚治虫の「ジャングル大帝」などを連載し人気を博した。また,優秀な投稿作品を掲載し,ここから寺田ヒロオ,藤子不二雄,赤塚不二雄,石ノ森章太郎など戦後を代表する漫画家が次々とデビューした。 |
|