図書館報「豊泉」TopNo.22目次arrow 前ページ次ページ arrow


本と図書館の三代目

農学生命科学部教授  卜 蔵 建 治

 「青森県史・自然編」の中で江戸時代の気候や冷害の実態を知るために図書館に通う機会が多くなった。弘前藩の日記など江戸時代に書かれた文書(古文書)からいろいろなことを読みとるなんて君にできるのですかと露骨に聞く人もいた。私に[和紙]に[墨]で書かれたあの古文書を読みとる能力などさらさら無い。ありがたいことにこうした古文書の多くは先輩達の献身的な努力により[西洋紙]に[インク]で印刷された訳本として(現代語の書籍)完成しており,古文書に書かれた内容を十分に理解することができる。
 古文書の時点(1800年代以前としよう)でこの文書を書いた人物にはそれなりの目的や使命感があって書いたことであろう。しかし,私にはこれを直接理解する力はまったくない。外国語の文章で判らない単語があれば辞書を引きながら読む。その言語の文法など理解していなくても日本語に変換された単語の並びを見れば,それで文章の内容はほぼ理解できる。「それが専門と言うものだろう」とうそぶいてきたが,古文書は勝手が違う。
 「い」だか「ろ」だか全く見当が付かない,辞書を引く以前の問題である。自然科学分野の教育しか受けていない私にとっては入り込むことの出来ない領域であり,私と(古文書)の間には現代語に訳した本(現代語の書籍)を通じてのみ古文書の理解が可能である。
 改めて現代語に訳された人達の偉大な存在を知る。古文書の筆者が「見聞したこと」「思想」「真理」を記述したのに較べ,現代語に訳した人物の存在はかなり異なったものと言えよう。先人の残した功績(古文書)を後世(現代)に広く伝えると言う使命感により出来上がったのが(現代語の書籍)と言えよう。この現代語の書籍を通じて我々は過去の出来事を理解し,さらに今日的な思想あるいは理論を基に真理を探究し,後世に文章でそれを伝える。古文書を一代目とするなら現代語の書籍は二代目であり,私達がそれを利用して書く本はさしずめ三代目と言うことになろう。一代目,二代目のどこかに間違いがあれば三代目の存在は脅かされる。逆に三代目の存在により一代目の存在が世に知れ,二代目が思わぬ脚光を浴びることもあろう。図書館と言う場はこうした三代が一同に会している事にこそ価値があるとも言えよう。書籍の内容から一代目,二代目,三代目を論じたが,今日の図書館には書籍というか思想・真理の表現・伝達手段に三代目の歴史が見られる。
 先の古文書:「和紙」に「墨」で書かれた書物を一代目とするなら,1900年代の我々の手にした本:「西洋紙」に「インク」で印刷されたものが二代目である。三代目はまだ事典,辞書などの一部の分野だが確実に広まってきてる CD-ROM がこれに相当するだろう。
 先日完成したばかりの『青森県史・自然編』は内容的には三代目だが,外見は図体がでかい二代目である。これからこの図体のでかい本全50巻もシリーズとして出版される予定と聞いている。巷で言われている「IT 革命」達成の暁には CD-ROM 化され,机の引き出しにでも収まるだろう。その頃には大学の図書館と言う空間はどんな変貌をとげて「変革の時代」に応えるのだろうか。  

(ぼくら・たけはる 農業生産学講座)


弘前大学附属図書館 Hirosaki University Library