図書館報「豊泉」TopNo.22目次arrow 前ページ次ページ arrow


生活と図書館の関係についての一考察

教育学部助教授  今 田 匡 彦

 さっぱり,すっきりと生活していくにこしたことはない。そうはいうものの,なかなか思うように行かないのが人生,とそれほど大げさなものではないにしろ,やはりいろいろ余計なモノがたまる,たまる,みるみるたまるのだ。原稿などの依頼を受ければ,それがキレイサッパリ脱稿されるまでは,心のドコか片隅に憂鬱な気分がやはり溜まってくる。
 さて書き始めようか,と思うその前に,まずコーヒーを入れ,もらいもんのヨックモックを食って,などと胃袋のことを考え,ついには掃除機をかけ,風呂の掃除までしてしまうこの現実逃避の精神,別名根性は一体何処からやってくるのか,池田晶子先生辺りに聞いてみたいところではある。おかげで今日の我が家は隅から隅までピッカピカである。
 かつてヴァンクーヴァーという町に8年暮らしていた。殆ど一人暮しではあったが,そのうちの1年ちょっとの間,キツラノというビーチ近くのデカイ一軒家のベースメントを,大学のオリエンテーションで隣りあわせた電子工学の院生の男の子とシェアしていたことがある。ヴァンクーヴァーには州立の総合大学が2つあり,一つは海沿い,もう一つは山の上とスミワケされていて,お山の方で修士をやった私は,今度は海の方で博士をやろうというわけだったが,お山の生活でたまりに溜まったモノを抱えて下山するのはなかなかの労力を必要としたのである。しかるに,この,仲間内ではJと呼ばれていたクワラルンプール生まれのチャイニーズ・マレーシアンは,スーツケース,バックパック,ヴァイオリン・ケース各1ヶずつという身軽さで,雪深いマニトバ大学からヒュイっとやって来た。さすがに最低限の家具などは2人でせっせと揃えたが,彼の衣類などはずっとスーツケースに入りっぱなしであったと記憶する。
 さて,問題は本である。電子工学の教科書は1冊100ドル以上もするとても高価なものばかりで,だからJの蔵書の数も大変少ない。故に彼は図書館のお世話になる。彼が小さいころから愛好しているヴァイオリンの楽譜も図書館のお世話になる。更新は自宅のコンピューターから直接図書館にアクセスできるので楽チンである。彼が愛読していたヤッピーマガジンの数々は,ゴミの日にどんどん出すので溜まらない。うらやましい。だが,私の方はと言えば,チャプターズというフランチャイズの本屋の会員なんかになって,ディスカウント目当てにどんどん本やら雑誌やらを購入し,そして捨てられない。その上,大学の図書館というのは,学位論文のディフェンスが迫ってくると,フォーマットや何やと,教官たちより厳しい指導をしたりするので,権威恐怖症の私はどんどん足が遠のく。
 そもそも家族とか,病院とか,工場とか,軍隊とか,図書館といったものが,権力を行使するための道具として国家によって利用されるというようなことは,デリダもフーコーも言っている。彼等が言う前から私は生理的にだめだ。良く大学の教官をしているものだと学生からも指摘される。ほっといて欲しい。と同時に,マーケット・エコノミーに荷担する私は論理矛盾の塊なのである。
 さっさと修士号を取得してシンガポール国立大学に就職が決まったJの蔵書は,大学図書館にキレイに引き取られ,スーツケースに入りきらない家具,文房具,スニーカー,シリアル・ボウル,中国茶用茶器一式は,博士論文が書き終わらない私に当然のごとく引き取られる。彼がすっきりさっぱりした分,こちらのモノは溜まる,という小学生でも分かる公式が成立する。そしてこの公式を支えるのは,私の「貧乏性」という精神,別名根性であることは80パーセントくらい当たっているかな? なにせ彼が買ったシリアル・ボウル2ヶと中国茶器一式は,何故か今弘前にあるのだから始末が悪いことこの上ないのである。その後,件のJは,アメリカのハイテク産業にプロモートして,今はコロラドのロングモントという田舎町で暮らしている。昨年ユタ大学で学会発表があった私は,ソルトレイクシティからデンバー行きのシャトル便に乗って久々に彼に会いに行く。相変わらず,すっきりモノが少ないアパートに感心している横で,「アレもってけ,コレもってけ」とちゃちゃを入れるこの華僑の人生はずっとすっきりさっぱりなんだろうな。

(いまだ・ただひこ 音楽教育)


弘前大学附属図書館 Hirosaki University Library